金倉の由来~金蔵寺町に金銀財宝はあったのか!?
第二回「金倉の由来~金蔵寺町に金銀財宝はあったのか!?」
善通寺市金蔵寺町にある金倉寺。金蔵寺町もそうですが、金の倉(蔵)とはなんとも縁起のいい、ぜひともあやかりたい名前です。
そもそも金倉寺は928年、醍醐天皇の勅命で当時の地名「金倉郷(かなくらごう)」から名づけられました。郷とは、古代の行政区画のひとつです。
かなり昔からそう呼ばれていたとは、もしやこのあたり一帯に金銀財宝が眠っていた?いや、実は今も眠っているのでは?
なんてことを考えていたら、金倉(かなくら)という地名に興味が沸いてきました。
今回足を運んだのは、善通寺市立郷土館。館長であり、市の文化協会会長でもある大河内義雅さんが地元の歴史にとてもお詳しいんです。
快く受けてくれた大河内さん、分かりやすいよう地図を引っ張り出してきてくれました。
そういえば地元には金倉川が流れているけど、もしかして由来に関係している?
「ちょっと待ってください。まだまだ(続きが)あるんです!」
私の先走った質問に余裕の笑みを見せる大河内さん。空気を読んだ私はそれ以上の質問を控え、彼の饒舌な語りにしばし耳を傾けたのでした。
金倉川は約400年前に名づけられた川。これは、それよりもっと前のお話・・・
昔の金倉川は現在の位置から少々ずれ、金蔵寺、吉田、稲木地区を流れていたとか。当時、この川を中心に因支首(いなきのおびと)という豪族が活躍していました。
因支首は、古代日本の皇族・武国凝別皇子(たけくにこりわけのみこ)の後裔で、後に和気(わけ)姓を賜っています。金倉寺の前身となる道善寺を開いた方も和気姓ですね。
この豪族が支配していた土地が、そう、金倉郷なんです。
南は善通寺市民体育館近くの村上池、北は海岸沿いの丸亀市中津町まで。金倉郷は因支首によって大変栄え、その中で金蔵寺というまちが作られていきました。
ここで気になるのが、金倉郷はいったい何をもって栄えたのか。
やっぱり金銀財宝???期待を捨てきれない自分がいます(笑)
金蔵寺町では、金倉寺周辺を本村、村上池周辺を下所と呼びます。これは古来からの名残りで、土地的に見て豊作地を本村、不作地を下所と呼んだそう。
讃岐では北が下所、南が本村になっているのが通常ですが、このあたりに限っては南が下所で北が本村になっているとか。非常に特徴的な土地であり、本村エリアである金倉寺周辺は、お米がたくさん収穫できていたことが分かります。
また、善通寺市は昔から伏流水に恵まれていたこともあり、稲作に適した土地だったようです。今も地下水が豊富なので、過去に深刻な水不足があった時も安心でした。もちろん、節水は大切ですけどね。
つまり金倉郷はとても豊かで、川も土地も支配していた因支首は稲作によって富を得ていたというわけ。ちなみに現在の稲木地区は当時「稲置(いなおき)」と呼ばれており、お米の管理を生業とする因支首の一族が住んでいたことを示しています。
昔はお米が貴重だから、確かに金銀財宝を生んだ縁起のいい土地だったと言えますね。
さて、恵みをもたらす川があれば、水害も多くなるのが世の常。
金倉郷では川の氾濫から大切なお米を守るため、2階建ての倉庫に貯蔵していたようです。まさに金の倉ですね!
善通寺市で発掘された国宝の銅鐸(どうたく※弥生時代の青銅器)には、稲作を示す脱穀の様子や高床式倉庫が描かれています。先人たちの知恵をうまく活用した因支首。才があったのも栄えた一因なのでしょうね。
ちなみに、この銅鐸に描かれた高床式倉庫。実は金倉寺にある鐘楼(鐘つき堂)の設計図にそっくり!ハシゴがかかっている様子など、この銅鐸の絵をヒントに設計されたのではと思わせます。
ここまでで約1時間、途中ヒートアップして話が枝分かれしつつも(笑)資料も見ずにスラスラと話してくださった大河内さんに脱帽!
彼のすばらしい解説はまだまだ続くのですが、続きは次回に♪