竜川の由来~川をめぐる壮大なロマン

第三回「竜川の由来~川をめぐる壮大なロマン」

前回、金倉という地名について、善通寺市立郷土館の館長・大河内義雅さんにお話を聞きました。そこで稲作により富を得た豪族や金倉郷というまちについて知ることになりましたが、その当時の人々の暮らしを支え、見守り続けてきたのが金倉川です(そう呼ばれるのはずっと後の話ですが)。

現在の金倉川は、満濃池を水源に琴平町を通り、丸亀市中津町で瀬戸内海に注ぎます。途中、善通寺インター周辺、竜川幼稚園や竜川小学校などがある「竜川」という地域を流れているのですが…。
ここでふと気になりました。竜川という地名、そして満濃池に残る龍神伝説。もしや金倉川にも龍神伝説があるのでしょうか?教えて大河内さん!

もちろん快く話してくれた大河内さん。この後、私は川をめぐる一大ストーリーを知ることになります。

そもそも「金倉川」は江戸時代、西嶋八兵衛によって改修され名付けられたもの。時代や地域によって、「野田川」「櫛梨川」「十市川」などさまざまな呼び名があったそうです。
一方、「竜川」という地名ができたのは明治23年、金蔵寺・原田・木徳地域が合併されたとき。意外と最近なんですね。では、なぜ“竜の川”なんて名前にしたのでしょうか。
大河内さん、やっぱり満濃池の龍神伝説と…「いや、それは関係ないと思いますよ」。
ファンタスティック!な希望はあっさり閉ざされたのでした(笑)

旧金倉川(西嶋八兵衛が名づける前)の水源となる満濃池が誕生したのは、奈良時代の初めごろです。決壊する度に空海をはじめとする偉人たちが修復していましたが、鎌倉時代に入って再び決壊。以降450年間、満濃池はなかったんです。

水源がないわけですから、旧金倉川もいったん枯れています。その代わり、小さな川が無数にできていました。が、この川がまた厄介で。きちんと整備されていない自然の川だったこともあり、大雨が降る度に氾濫していました。
それを裏付けるのが、善通寺インター付近から多く発掘されたという、祭祀に使われる人型の御幣。他の遺跡はほとんど見つからず、人型ばかりが出てきたそうです。


村上池

御幣が出土した善通寺インター近くの村上池


そんな歴史を忘れないように、という戒めもあったのかもしれません。
“竜のような川=竜川”
一帯に流れる暴れ川を象徴した地名だったんですね。

ここに龍神伝説はなかったけれど、時に川の氾濫を沈め、時に恵みの雨を乞い。人柱的な願いを込めて人型を置き、水を司る龍神様に祈りを捧げていたのでしょう。

改めて考えてみると…。
そんな荒ぶる龍神様を飼い慣らし、富を得た豪族・因支首ってすごい。川を使ってお米を運ぶ、いわゆる海運にも長けていたらしいですよ。金倉郷が栄えたのも納得です。


金蔵寺条里地図

金蔵寺条里地図


さて、その後ようやく現在の満濃池が完成し、無数の暴れ川を整備して金倉川にしたわけですが、当時、川は農作に欠かせない大切な資源。水利をめぐる争いが各地で起こっていたという話を聞きました。
たとえば金倉川に注ぐ川と、与北町の買田池に注ぐ川。この2本は上流で水路が交差しており、金倉川の水を必要とする地域と買田池の水を必要とする地域で争いごとが頻発していたとか。互いに水を確保するため、一晩中見張りを置くのも常であったといいます。

「人々は川で良い思いもしてるけれども、大変な苦労もしているんですよ」
川とともに生きた先人たちに、思いを馳せる大河内さん。
私たちにとって川は身近な風景のひとつで、普段はあまり関心を持ちません。でも、苦労をしながらもその恩恵を最大限に受けてきたからこそ、今の暮らしがあるんだろうなぁ。

穏やかに流れる金倉川を眺めながら、そう思うのでした。


金倉川

金倉川