修験の成立について
| 仏教のこと
昨日は天台寺門宗の実践修行である大峯入峰のことを書きました。
今日は修験の成立について紹介したいと思います。
天台修験を本山修験派といい、この本山修験派の開祖が智証大師です。
このため天台寺門宗の教義は三道融会といい、円教、密教に修験を加えた独特の教風となってます。
江戸時代の三井沙門、尊通によって編集された『智証大師年譜』には次のように著されています。
師三十二歳。古記に云く、「承和の間、師大峯の険阻を攀じり、葛嶺の深𨗉を歴る」と。
承和年間と言えば834年~847年に相当し、智証大師が21歳~35歳の期間に相当します。
また智証大師32歳と言えば、比叡山において12年間の籠山が満行した年に当たります。
そのため、32歳~35歳の間に大峯に入峰したであろう、と尊通は述べています。
また智証大師は千日の行をしたことを示唆する別の記事を引用します。
或いは曰く、「熊野山に秘記有り。那智瀧下に千日籠居し、苦行を積む者、始めて之見ること得る。号して三巻記と曰う。又は八巻記と名づく。其の中吾師の入峯の顛末を載すと云う」と。
このように天台寺門宗の修験は、宗祖智証大師をその起源とし、天台修験、いわゆる本山修験派の礎とした訳です。
現在本山修験派と言えば聖護院を中心とした修験教団のことを想像する方も多いですが、白河天皇より聖護院を賜り、初の熊野三山の検校となったのも平安中期の三井沙門である増誉でした。
現在本山修験派と言えば聖護院を中心とした修験教団のことを想像する方も多いでしょう。
しかしその聖護院も、平安中期の三井沙門増誉が白河上皇の熊野参拝の先達を務めた功績により賜ったものです。
併せて熊野三山の検校職も賜り、代々三井寺と共に受け継がれてきました。
以上のような歴史背景により、天台寺門宗では現在でも、智証大師を慕いその霊跡である大峯山への入峰修行を行っているのです。
哲済