新羅明神について02
| YUJ
前回、新羅明神が智証大師さまを園城寺の地に招かれた説話を紹介しました。
この説話は、もともとこの園城寺の地に新羅明神が祀られていたことを示唆します。
※この記事はYUJ第16号(平成24年1月中頃発行予定)の草稿です。
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園城寺の縁起によりますと、園城寺は天智天皇の第一皇子である大友皇子の菩提を弔うため、その子大友与多王(よたのおおきみ)によって建立されたといわれています。
よって、園城寺を氏寺とした大友村主氏は、大友皇子の後裔ともいわれていますが、実際には大津周辺に定住した百済系渡来人の首長です。
しかし近江朝廷において、大友村主氏は大友皇子の有力な支持勢力であったようです。
つまり園城寺は、壬申の乱の後、主君であった大友皇子の菩提を弔うために、大友村主氏が建立したと考えられます。
そしてその園城寺の守護神として新羅明神が祀られていました。
新羅明神はその名が示すように、「新羅の神」を意味します。
この「新羅の神」とは、特定の神さまをいうのではなく、新羅人の先祖の霊をいいます。
つまり新羅明神は「新羅人の先祖の霊」を神として祀った存在であるといえます。
古来より半島との交流が盛んであった日本では、多くの渡来人が定住し、集落を形成していきました。
集落では、先祖の霊を祀る廟が建てられるようになり、これらが後に神社となりました。
つまり、新羅人の集落では新羅神社が建てられ、先祖の霊が祀られるようになったのです。
それでは、どうして百済系渡来人であった大友村主氏が、新羅明神を守護神として祀っていたのでしょうか。
古来より近江国は、若狭や敦賀などの日本海経由の文化と瀬戸内海から大阪湾、淀川を経由して入る文化の交差点でした。
とくに琵琶湖西岸は新羅人の居住地であったようで、一帯にその遺跡が残っています。
また、園城寺の「新羅善神堂」のみならず、いくつかの「新羅神社」が存在します。
一方で、大友村主氏のような百済系渡来人が大津に移ったのは、5世紀後半頃といわれています。
おそらく大友村主氏が大津に定住するより先に、氏神としての新羅神社が現在の「新羅善神堂」の地にあったのでしょう。
こうして、新羅明神は園城寺の守護神となり、智証大師が園城寺別当となる9世紀中頃まで、大友村主氏によって護られてきたのでしょう。