乃木将軍ってどんな人?〜善通寺の乃木館探訪2〜
第十六回「乃木将軍ってどんな人?〜善通寺の乃木館探訪2〜」
前回に引き続き、女性自衛官・安田さんの案内で乃木将軍の素顔を探る「乃木館」探訪です!
軍服を着ているとき以外は表に出ることがなかったという乃木将軍。カリスマ性もあっただろうし、もちろん軍を統率する力もあったのでしょう。でもそれは、職務に対する一面に過ぎないのかもしれません。
乃木館にはコピーも含めて古い写真が多く残っています。「水師営の会見」もそのひとつで、水師とは水軍、営とは軍の駐屯地を指します。
水師営の会見とは、日露戦争でロシアの要塞が陥落した後、乃木将軍が敵将軍と行った会見。いわば日本の勝利を意味するものです。日本が勝ったというビッグニュースで取材が殺到する中、会見中は取材も撮影も一切NGとした乃木将軍。それは、負けたロシア側の心中を思ってのことでした。
これは会見終了後に1枚だけ許された貴重な写真ですが、実はありえないシーン。というのも、本来は負けた側が丸腰であるはずなのに、全員が武装しているからです。
そこには、「武士にとって刀は命のように大切なもの。それはロシアの兵も同じであるから、武器は持ったままでよい」といった乃木将軍の心づかいがあったとか。敗れた相手にも敬意を払い、敵将の名誉も保持したのです。
当然、日露戦争後の乃木フィーバーはすごかったようですが、失われた多くの命を思ってか、本人は辛そうだったという声もあります。
水師営の会見で写真の右側に写っているのは、ナツメの木。善通寺駐屯地の敷地内には、株分けされたナツメの木が植えられています。
青空の下で、小さなかわいい実をつけていました。
また、乃木将軍は戦災で両腕を失った兵士のために、義手を発案しています。自身も戦争で片腕・片足に銃創を負っていましたが、自分はまだ片腕があるからよい、一服の清涼剤としてタバコも吸えないのはかわいそうだと語ったというエピソードも。
ちなみにこの「乃木式義手」、当時にしてはかなり高度な性能だったみたい。
この義手はもちろんですが、自分の財産のほとんどを亡くなった兵士の遺族への慰問などに費やしています。きっと、多くの兵士が戦死したことに心を痛めていたのでしょう。
そんな乃木将軍にも家族がありました。妻・静子は乃木将軍とともに自決したのですが、世間では、道連れや無理心中など批判的な意見もちらほら。
しかしながら、軍人の妻として、また2人の子を持つ母として、良妻賢母だったといわれる静子夫人。もしかしたら、本人が殉死を選ぶ主人についていこうと決断したのかもしれない。もしかしたら、子の戦死に深く悲しんでいる妻を置いていけなかったのかもしれない。乃木将軍の自決は直前まで妻に知らされてなかったというし、本当のことはふたりにしか分かりません。
彼の遺言書には、“静子殿”として妻に宛てた言葉もあり…。丁寧に書かれたその文字に、妻へのやさしさや愛情が込められている気がします。
乃木将軍は小さいころ、母が片付けていた蚊帳の金具が原因で左目の視力を失っています。でも、母の過失ともいえる失明の原因をずっと伏せ、何事もなかったかのように過ごしていたそうです。なぜなら、母を悲しませたくなかったから…。
子どものころは、いじめられっこで泣き虫。そんな彼に強くなってほしいと願い、厳しく育てたとされる両親。
両親の願いどおり、立派な軍人となった乃木希典は、人格者といわれる中に家族思いの一面を兼ね備えた人だったのではないだろうか。
少なくとも私にとっては、そう思えました。
旧司令部だった乃木館は、10年前まで現司令部として使われていました。これはとても珍しいことなのだそうです。
乃木将軍をはじめ、陸・海・空軍ゆかりの貴重な展示物のほとんどは倉庫で眠っていたもので、自衛官たちがそれらを並べ、手作りしたという資料館。ここで紹介したエピソードは、ほんの一部です。
戦争に隠されたいろんなことが見えてくる、そんな場所です。
乃木館(善通寺駐屯地内)
OPEN 9:00~12:00、13:00~16:00
CLOSE 水曜、年末年始
〒765-8502 香川県善通寺市南町2-1-1
Tel.0877-62-2311(内線2321)
※団体客は予約がベター